私がどうして不動産業を選んだかについて、お話ししたいと思います。
八王子で酪農を営む家に生まれた私は、高校進学時に親の考え方で「職業高校に行くなら行かせてやる」と言われました。ですから他の兄弟(姉・兄・弟)も全員が職業高校に進学しました。その趣旨は「腕に職を付け、一人で食ってゆけるように・・・」というものです。
私は、府中市にある都立の工業高校の電気科に入りましたが、勉強はあまりせず部活の剣道を中心に高校生活を送りました。それでもそんなに成績は悪くなかたように記憶しています。
卒業を控え他の級友は就職する人が殆どで、進学する人は数人でした。その時に生意気に「世の中は電気で動いているんじゃない」と思って、経済の勉強をしようと考え、理系から文系に方向転換しました。
元々、受験用の勉強をあまりしていなかったので高校卒業後、渋谷区代々木で新聞配達をしながら浪人生として過ごし、大学に入るのに2年もかかってしまいました。結果として、大学へはなんとか「もぐりこんだ」というのが実感です。
大学時代も当時は大学自体がレジャーランドと言われていたように、そんなに勉強しなくてもアルバイト生活を中心に過ごし、なんとか卒業できました。もっとも、学生運動の盛んな学校でしたから、期末試験は毎回ロックアウトになりレポートばかりで試験は1回もありませんでした。一方、六大学野球の観戦に神宮球場によく行きました、なんと言っても怪物江川の時代ですから。校歌も応援歌もそこで覚え、さらに他大学の校歌も自然に覚えましたね。
就職は、アルバイト先の日興証券の関連会社(不動産会社)に引っ張られある程度決まっていました。ここで初めて「不動産」という分野の接点があったことになります。しかし、ある日、聖蹟桜ヶ丘で不動産業等を営む叔父から「うちの会社に来なさい」といわれ、何となくOKしてしまいました。というのも当時は、その会社は社員が70名ほどいて、地域ではそれなりに存在感のある会社だったからでした。
叔父の会社に入社すると、倉庫業部門・飲食部門・不動産部門とある中で不動産の部門に配属になりました。不動産部門は、売買仲介・賃貸仲介・社有物件を取り扱う開発事業部がありましたが、開発事業部に所属し仕事を始めました。
開発事業部は、開発行為の申請や位置指定道路の申請、そして現場の工事期間中の現場管理、完成後の販売等が主な仕事です。土曜日や日曜日は、役所が休みですから賃貸部門のお手伝いで店頭に出て接客もいたしました。当時は、ワープロもパソコンもなかったので契約書は全て手書きでした。これが私にとって勉強になったと今でも思っています。
ある時、自社開発物件の販売でお客様とやり取りの中で、当初のお約束と違って工事の遅れが出てしまい、言いわけにとても困って胃の痛い思いをしましたが、お客様に「申し訳ありません」と平謝りをしたところ、若かったので顔に困った様子が出ていたんでしょう。お客様は「良いんだよ・・・、仕事だからそういうこともあるでしょう」と言って下さいました。生れて初めて「本当に助かった・・・」ということを実感した時でした。全てを終えてから、その方から当時結婚したての私に「これまでの感謝のしるしだ」だと言ってお祝い(高価な置時計)を頂いたことを覚えています。
多分このことが、私を不動産業で生きて行こうと思わせた一瞬だったかもしれません。喜んでいただけた、感謝していただいた、嬉しい笑顔を見ることができた、このことがこの道に決めた大きな出来事だったと思います。
会社社員時代から入っていた消防団では、合計12年間属しました。これは地域の奉仕活動みたいなものでしたが、その後の仲間として地元の付き合いも仕事的にも大きな影響を与えてくれた存在でした。毎年、年間80回くらいの活動がありました。山火事を防ぐ名目の草刈り、歳末警戒、操法大会の練習、当然、実際の火災の場面もありました。退団した後も彼等とはある種の「絆」みたいなものがあり、会えば元気が出る仲間たちです。
会社に入社して、丁度10年目に独立開業いたしました。独立開業とか起業と言えば聞こえは良いのですが、実際は少しばかり違うのが私の場合でした。その頃、勤めていた会社が調子が悪い状態で、それを打破するために新会社をつくりそこで新規事業をやろうと言うことになり、私が代表となり何の仕事をしようかと考えている間に、会社が倒産してしまったということでした。何人かで一緒に走りだして、しばらくして振り返ったら誰もいなかった、こんな感じのスタートが独立開業の経緯です。
上の中央の写真が、最初に出した事務所の風景です。昭和62年頃です。アパート情報・アルバイト情報を取り扱っていましたので、いつも学生さんが事務所に来ていました。両サイドの写真はその頃の私です。
結局は、不動産周辺業務から仕事を始めることにしました。不動産業を始めると言うことは、管理物件を確保しなければなりませんが、賃貸物件そのものをり扱うことは既存の不動産業者と競合が生じますので、競合しないその道を選択しました。
最初に就職した会社の仕事の続きで、中央大学の野球場の買収(地上げ)業務や、八王子市下柚木の住宅公団用地の買収業務なども継続していましたので、仕事的には忙しい時間を過ごしていました。
表向きには学生さん相手の仕事、実際の収入は分野の違う不動産業そのものというのが実態でした。当時は、まだバブルの名残もあり何となく仕事はある状態で、ある意味良い時代でした。
続きは、製作中。